この記事について。 登場する7人はすべて AI が生成した架空のペルソナで、実在の個人・団体の 発言ではありません。実在の業界団体役員や経営者の見解として読まれることは意図していません。 発端は、治験業界で働く知人から「立場の違う関係者がこの議論をどう受け取るかをシミュレートして、 自分の視野を広げたい」と頼まれたことでした。
なぜこれをやったか
自分の書いたものを、自分と違う地面に立っている人が読んだらどうなるか。これは普段いちばん 確かめにくいことだ。書き手は自分の前提を疑えないし、身の回りの人は近すぎて似た前提を共有している。
治験業界は、私にとって完全に外側の領域だった。だから逆に条件がよかった。元記事の主張が 「たまたま私の周りで通用しているだけ」なのか、「地面が変わっても骨格が残る」のかを、 乱暴だが一度に確かめられる。
7つのペルソナは、互いに利害が対立するように設定した。効率化を求める側と、効率化されると 売上が減る側。評価する側と、評価される側。標準化を持ち込みたい側と、標準化で足元が崩れる側。 同じ記事を読ませても違う場所が痛む、という状態を作らないと意味がない。
各ペルソナには元記事の論点を要約して渡し、詳細な経歴・立場上のジレンマ・語り口を個別に設定した。 互いの意見は見せていない。だから複数が独立に同じ結論へ到達した箇所は、設定から自然に出た収束になる。
7人の設定
| 立場 | 設定 | 構造的な位置 |
|---|---|---|
| CRC | 32歳・看護師4年→SMO7年・同時4〜6試験を担当 | 責任は舞台、権限は客席 |
| CRCマネージャー | 41歳・CRC出身・部下25名 | 経営と現場の板挟み。評価制度の設計者にして被害者 |
| SMO社長 | 55歳・CRC200名規模・非上場 | 人月モデルの当事者。効率化=自社売上減 |
| 治験責任医師 | 49歳・地方中核病院・同時5〜8試験 | 責任だけが動かない側 |
| 製薬企業スタッフ | 38歳・CRA出身・効率化推進担当 | 効率化を叫ぶ側 |
| SMO協会役員 | 58歳・教育/認定制度担当・定年間近 | 合意形成が構造的に禁止しか生めない中間組織 |
| CRO協会役員 | 60歳・外資系・グローバル会議の内側を知る | 最も批判的。日本を属州として見る外部視点 |
用語だけ補足しておく。CRC(治験コーディネーター)は病院側で治験の実務を回す職種、SMO は その CRC を病院に供給する会社、CRO は製薬企業側の業務を受託する会社、GCP は治験の実施基準、 SDV は原資料とデータの突合作業。この4つが分かれば以下は読める。
第1部:7人の意見
① CRC(32歳・経験7年)
「余剰を給付として配るだけか、卓越への挑戦権と格付けの舞台をセットで配るか」——この一文を 読んだとき、自分の職種のことを言われている気がしました。
私の仕事の実態は、記事の言葉を借りれば「観客席」に近いんです。プロトコルは製薬企業が書き、 判断は医師が下し、監査の基準は当局が決める。私はその全部の隙間を埋めて走り回っている。 誰も設計に呼ばない。でも何か起きたら「CRC が確認していなかった」と言われる。 責任だけは舞台の上にあって、権限は客席にある。
もうひとつ刺さったのは「価値は選択や防衛のコストを払って初めて所与から信念に変わる」。 認定資格を取ったとき、何も変わらなかった理由がこれかもしれません。あの資格は、私が何かを 選んで何かを捨てた証拠じゃない。試験に通っただけです。誰にも防衛を求められていない。 だから身体化されなかった。
違和感のほうを、遠慮なく書いてもらった。
「余暇」「卓越」「舞台に上がる」——この語彙は、私にはかなり遠いです。
私は暇になったことがない。転記と確認が AI に置き換わったら暇になるかというと、たぶんならない。 担当試験が4本から7本になるだけです。 この業界で効率化が起きたとき、余剰が個人の余暇に 還元された例を私は見たことがない。全部、案件数に吸われる。だから「AI が労働を代替したあとの 余暇をどう設計するか」という問いの立て方そのものが、雇われている側の実感とずれています。 余暇は自動的には発生しない。記事の satisficing の話は個人の意思決定に閉じていますが、 私の労働時間の閾値を決めるのは私じゃないんです。
「舞台に上がれ」も、正直きついです。上がる意思がないから客席にいるわけじゃない。 舞台に上がる階段が制度として無いんです。 アテネに liturgia があったのは、私財を公共に 変換すれば名誉になるという回路が制度としてあったからでしょう。回路がない場所で「舞台に上がれ」 と言われても、それは個人の気合いの問題に落ちてしまう。
そして、元記事にない椅子を指摘してきた。
記事には「評価されない仕事」の話が出てきません。
ローマの大衆は給付を受け取っていて労働していなかった。でも私たちは違う。労働はしている。 ただ、その一部が「測られない」だけです。被験者さんが同意説明のあと待合室で黙ってしまったときに 横に座る15分。家族の介護で来院できなくなった人の生活を組み替えて、脱落を防ぐ調整。 これは症例数にも指摘件数にも出ない。
AI が代替するのは、まさに測られている側だと思うんです。 私の評価シートに載っている項目が そっくり消える。残るのは、今まで評価されてこなかった部分だけ。そのとき「じゃあ CRC って 何をする人なんですか」と問われて、私は答えを持っているのに、それを証明する数字を持っていない。 記事の「観客席か舞台か」は舞台に上がる意思の話として書かれていますが、実際には 「舞台に上がっているのに照明が当たっていない」 という状態がある。
もう一点。model collapse で裾野が死ぬ話は、私の業界だと別の形で来ます。逸脱の予防って、 過去の典型パターンを潰す作業じゃないんです。「この患者さんは今回だけ様子が違う」という 裾野の異常に気づくこと。平均的な最適解を返すシステムに任せたら、一番危ないところを取りこぼす。
測られる仕事は速く消える。測られない仕事に値段がつくのは遅い。その間に空白ができて、 そこで人が辞めていく。私も残っていられる自信はありません。
それでも、被験者さんが「先生には言えなかったんだけど」と切り出すあの瞬間は、たぶん最後まで 残ります。記事の言い方に乗るなら——私はもう舞台に立っているつもりです。照明のほうを、 誰か何とかしてほしい。
② CRCマネージャー(41歳・部下25名)
観客席と舞台、という切り方は、正直、読んでいて胃が痛くなりました。うちの評価シートが まさにローマだからです。
CRC の評価項目を数えてみると、受託件数、稼働率、逸脱ゼロ、期日遵守。全部「与えられた枠の中で、 どれだけ穴を開けずに回したか」の指標です。つまり減点法で、記事の言う「禁止のリストだけが肥大して 推奨のリストが空になる」構造そのものです。何をやると褒められるのかを、うちは言語化できていない。 件数と稼働率は給付のロジックです。舞台どころか、席の埋まり具合しか見ていない。
3〜5年目で辞めていく人が言う「作業に感じる」は、能力の頭打ちではなく、格付けの舞台が 用意されていないことへの反応だったのだと思います。25人いて管理職の椅子は2つか3つ。 舞台が一種類しかない社会で、9割の人は自動的に観客席に回される。アゴーンの不在というより、 種目の不在です。
ここから、元記事への最も実務的な反論が出てくる。
第一に、全員が競技者になりたいわけではない。定時で上がって家庭を回すことを最優先にしている 人がいて、手を抜いているわけではなく、むしろ品質は安定している。彼女たちに「卓越を目指せ」と 言うのは、舞台に上げるのではなく、舞台に立てと命令することです。挑戦権を配るのと挑戦を 義務化するのは紙一重で、マネジメントの現場ではだいたい後者に転ぶ。
第二に、格付けは疲弊を生む。以前モニタリング指摘件数の少なさを可視化したことがあって、 起きたのは改善ではなく隠蔽の芽でした。順位が付くと、順位を上げる行動ではなく順位を悪く しない行動が最適解になる。アゴーンが機能するには「負けても人格が毀損されない」文化的前提が 要るはずで、それはこの現場にはまだない。
第三に、これが一番言いたいところですが、liturgia は富裕層の話です。私財を投じて名誉を得る 回路は、私財がある人にしか回らない。うちの CRC は年収でいえば決して高くない。余剰のない人に 余剰の使い方を説くことになる。舞台に上げたいなら、上げる側が舞台の設営費を払うべきで、 そこを個人の意欲の問題にすり替えるのは経営としてずるい。私はその「ずるい側」に立たされる 位置にいます。
AI 後に何が残るか、という問いへの答えが具体的だった。
消えるのは転記・照合・スケジュール管理。これは残念ながら、いま新人が2年かけて覚えている 業務とほぼ一致します。育成の入口が消えるという意味で、効率化は育成の破壊でもある。
残るのは三つ。①被験者との関係(eConsent が定型を吸収した分、残った部分の密度が上がる) ②施設内の政治(記録に残らない情報で動いている調整)③判断の引き受け(グレーな事象を 「これは報告する」と決めること)。
だとすると再定義は「作業者から、判断者と関係者へ」。ただし決断には権限が要る。うちの CRC には、 いま権限がほとんどない。 権限を渡さずに判断者になれと言うのは無理です。月曜から変えるとしたら、 まず評価シートに「判断した件数」を入れる。逸脱を防いだ件数ではなく、グレーを判断して 記録に残した件数を。
そして、記事の枠組みが規制産業と噛み合わない理由。
規制産業では、卓越を競わせること自体が品質リスクになる。GCP は標準化の思想でできていて、 個人の裁量や工夫は原則として逸脱です。治験の現場に必要なのは「誰がやっても同じ結果になる」 ことで、これは構造的にアゴーンと逆を向いている。
そして被験者保護は競争と相性が悪い。速さや件数を競わせれば、必ず同意取得の丁寧さが削られる。 だからうちの評価が減点法になっているのは、単なる怠慢ではなく、業界としての正しさの残骸でも あるんです。そこを見ずに「観客席型だ」と言われると、半分は当たっていて半分は不当だと感じます。 舞台の種目を、速さや件数ではないところに設計できるか。おそらくそれが本当の宿題です。
正直、この記事に答えをもらったわけではありません。ただ、自分が配っているのが給付なのか 挑戦権なのかを問う言葉をもらった。 それは、ありがたかった。
③ SMO社長(55歳)
経営者として読むと、この記事はやはり「払う側にいたことのない人の書いた文章」だとも思う。
穀物配給に相当するものを名指ししてきた。
うちの収益は治験1件あたり×CRC の人月で立っている。つまり我々は、征服の戦利品(=製薬の開発予算)が 流れてくる経路に張り付いて食っている都市住民に近い。自分の畑を持っていない。
では「穀物配給」は何か。私の見立てでは単価表だ。工数表、支援業務の単価、症例あたりのフィー。 あれは市場価格ではなく、実質的に発注側が決めた配給水準だ。我々は毎年その改定を陳情しに行く。 これは交渉ではなく請願だ。パトロネジそのものだろう。 しかも忠誠は業界制度ではなく特定の 発注元とその担当者個人に向かう。「あの部長がいるうちは仕事が来る」という会話を、うちの営業は 今日もしている。忠誠の私物化はもう起きている。
一番怖いシナリオ。AI とデジタル化で実務が発注側のシステムに吸い上げられ、施設に残るのは 同意説明の同席と採血のスケジュール調整だけになり、我々は労働力の派遣元に落ちる。単価は下がるが 仕事はゼロにはならない。ここが最悪なところだ。ゼロなら畳めるが、細く続くから畳めない。 パンとサーカスは、餓死させないから反乱も起きない。 共和政の名前だけが残った帝政期のローマと同じで、 看板は残る。
人月モデルのジレンマは、記事の分岐条件にそのまま乗る。
AI で工数が3割減ったとする。人月モデルなら売上が3割減る。比喩ではなく、そのまま減る。 減った3割はどこへ行くか。今の契約構造だと全部発注側に行く。値下げ要求という形で回収される。 これは精神論ではなくキャッシュフローの話だ。
アテネの liturgia が利いていたのは、私財を公共に投じたら名誉という形で格付けが返ってきた からで、投じ損にならないからだ。うちの業界にこれに相当する回路はない。実施率でも脱落率でも 明確に数字で差が出ているのに、契約は工数で結ばれる。測れるのに、値段がつかない。 これが一番おかしい。
反発は鋭い。
「観客席か舞台か」は美しいが、舞台の建設費を誰が払うのかが抜けている。アテネの liturgia は 要するに金持ちに払わせる仕組みだ。CRC 一人を育てるのに実務で2年かかり、その間は完全に持ち出し。 その2年を払うのは私であって、効率化の果実を取る側ではない。「舞台に上げよ」は、払う人間から 見れば「お前が払え」と同義でしかない。
設計権のない者に「制度設計の問題だ」と言うのは、少し呑気だ。
最大の死角は、記事が「社会」を一枚岩で語っていること。「社会が暇な人間に何を要求するか」と 書くが、その「社会」は実在しない。実在するのは分配交渉のテーブルとその席次だけだ。 ローマの穀物配給だって、護民官が政治的に勝ち取り、有力者が政治的に利用した結果だ。 制度設計は善意ではなく交渉力の関数だという視点が、この記事にはない。
そしてもう一つ。日本はアテネかローマかを選べる位置にいない。 これは「余暇をどう使うか」の 話ではなく、そもそも舞台に呼ばれない話だ。我々が直面しているのは属州化だ。属州にも 都市があり地方名士がいてそれなりの生活はある。だが議題は本国で決まる。アテネかローマかを 論じられる国は、まだ中心にいる国だ。
ただし、内部改革の必要も自分で認めていた。
マネージャー層へ。稼働率を追うのはもうやめさせたい。 人月を売らない会社に変えようと しているのに人月の指標で評価していたら、絶対に転換できない。KPI を変えないままの改革は、 必ず失敗する。
製薬企業へ。3割効率化して3割値切られる取引に、誰が設備投資をするのか。 果実の分け方が、次の果実の量を決める。
業界団体へ。必要なのは値上げの請願ではなく、評価軸そのものを作ることだ。格付けは怖い。 うちが落ちる可能性もある。だが格付けのない世界では価格は工数でしか決まらない。 舞台に上がるというのは、負ける可能性を引き受けることだ。そこだけは、記事の言うとおりだと思う。
④ 治験責任医師(49歳)
正直、読み始めたときは「またローマかニーチェか」と身構えた。教養主義的な回り道をして結局 「AI 時代を生き抜くには自分磨きを」に着地する種類の文章だと思ったからだ。読み進めて、そうでは なかった。
「試練の不在」が、臨床研究の地盤沈下の説明になっていた。
うちの科で研究をやる若手が、この十年で目に見えて減った。本質は、研究をやり遂げた経験を持つ 人間が周りにいなくなったことだ。私が後期研修医の頃、上司は自分の症例を溜めて自分で統計を 回して査読で殴られて、それでも通した。その姿を横で見ていたから「研究とはこういう試練だ」という 身体感覚が入った。
今の若手は、試練の形をした研究にほとんど出会わない。多施設共同試験に症例を登録する仕事は、 統計解析も論文執筆も中央がやってくれる。出せば共著者に入る。業績にはなる。だが、その業績は 身体化しない。 症例登録が悪いのではない。ただ、その構造は「観客席に座らせる」設計だという 自覚を、指導する側が持たないといけない。
インフォームド・コンセントの形骸化も同じ経路をたどった。ある試験で説明に90分かけたことがある。 患者は途中で「先生に任せます」と言った。その一言を聞いた瞬間、この90分が誰のためのものだったのかを 考え込んだ。監査で指摘されないためだ、というのが正直な答えだった。倫理が手続きに置き換わると、 こうなる。
そして、元記事の相対主義論に対する唯一の有効な反例が出た。
「相対主義は構造的に推奨を生成できない」には部分的に反論したい。医学は、現代においてほとんど 例外的に「何をすべきか」の規範を制度として持ち続けている領域だ。 ヘルシンキ宣言は「べし」を 言う。被験者の福利は科学と社会の利益に優先する、と明言する。診療ガイドラインも「推奨度1、 エビデンスレベル A」と書く。医学は、価値の共有をあきらめていない。
だから記事の枠組みは、私の領域では半分しか当たらない。ただし残り半分は、記事の想定より深く当たる。 医の倫理は推奨を持っているが、その周辺で肥大したのは圧倒的に禁止のリストのほうだからだ。
何が殺されたか。一つは医師主導の小さな試験だ。「この患者群にこの薬を試したい」という着想が 出ても、手続きを数え上げた時点で誰も手を挙げない。企業治験なら全部やってくれる。だから 着想の出所が製薬企業側に移り、日本の臨床研究の地盤沈下が起きた。 禁止のリストは被験者を 守ったが、同時に「臨床の現場から問いが立ち上がる」経路を殺した。過去の不正事案以降の規制強化は 必要だったが、用量の議論はほとんどされなかった。
元記事の二分法に足りない椅子を、ここでも指摘された。
AI が有害事象を「関連なし」と分類しても、その判断に署名するのは私だ。作業は自動化されるが、 責任は一ミリも動かない。
私が心配しているのは「AI に判断させて自分は観客席に座る医師」ではない。それなら、まだ本人が 座っている自覚がある。危ないのは、責任だけを舞台に置いたまま、判断は観客席から眺めている医師だ。 AI が出した評価に「はい」を押し続けて三年経った医師は、自分でその評価ができなくなっている。 そして事故が起きたとき、責任は彼にある。舞台に上がっているのに演技ができない状態。 記事の分類にはこの第三の椅子がない。
制度設計として配るべきは「挑戦権と格付けの舞台」だけでなく、「AI の出力を否定できる能力を 維持させる仕組み」だ。AI の提案を却下した回数と理由を記録し、それ自体を評価対象にするような設計。
CRC については、率直に厳しかった。
代替可能なのはスケジュール管理、来院前準備、データの一次入力、逸脱の形式チェック。 ここだけをやっている CRC は、率直に言って十年後に厳しい。
代替不可能なのは二つ。①被験者が「先生には言いにくいんですけど」と切り出す相手であること。 私が診察室で聞き出せない情報を、CRC は待合室で聞いている。②問題が起きる前に気づくこと。 「この患者さん、次回の来院日が併用禁止薬の処方日と重なります」と先に言ってくれる CRC がいる。 彼女たちは、プロトコルを読むだけでなく、患者の生活を読んでいる。
舞台に上がってほしいか、正確な作業者でいてほしいか。本音は「両方」だが、無理なら舞台だ。 ただし、これは医師側にも要求を突きつける。 CRC が舞台に上がるとは、彼女たちが私の判断に 異議を唱えるということだ。「先生、この症例の組み入れは基準を満たしていないと思います」と 言われて不機嫌になる医師は多い。私も昔そうだった。舞台を用意すると言いながら、上がってきた 人を叩き落としてきたのは我々医師のほうだ。
そして、記事全体への最も痛い一撃。
この記事には患者がいない。 卓越を目指す人、余剰を配られる人、比較に苦しむ人は出てくるが、 その営みの受け手が出てこない。これは記事だけの問題ではなく、我々の業界の議論も同じだ。 どの会議でも主語は製薬企業と医療機関と規制当局で、被験者は「確保すべきリソース」として登場する。 私が90分かけた患者が「先生に任せます」と言ったとき、彼はこの議論のどこにもいなかった。 舞台に上げるべき第一の当事者は患者だ。
もう一つ。卓越の競争は、医療では患者の不利益になりうる。 医学研究におけるアゴーンの副産物は、 症例の抱え込み、ネガティブデータの隠蔽、統計解析の後付けだ。名誉が通貨だからこそ、名誉のために データが歪む。記事は基礎科学を「名誉が通貨の領域だから伸びる」と書くが、その通貨には偽造がある。 競技の場を作ることと、競技を腐らせない制度を作ることは、必ずセットでなければならない。
⑤ 製薬企業 臨床開発スタッフ(38歳)
人文的な議論として面白いだけでなく、正直、自分の仕事の診断書を突きつけられた感覚がありました。
「禁止のリストの肥大」が、そのまま品質文化の描写になっていた。
GCP は本来「被験者保護とデータの信頼性」の体系のはずですが、現場に降りてくると「やってはいけない こと」と「やっていないと指摘されること」の集合体になっている。海外ではリスクベースで確認対象を 絞るのが標準になったのに、「絞った」ことを説明するコストのほうが、全部見るコストより高い。 だから誰も絞らない。
決定的なのは、「やめる」という判断に主体がいないことです。過剰な確認をやめるには、誰かが 「これは要らない」と言い、その責任を引き受けなければならない。手順書に一行足すのは誰でも できますが、一行消すには稟議が要る。 結果、手順書は年々厚くなり、誰も全部は読んでいない。 形式は完璧に残っていて、実質が空になっている——記事の「制度の形骸化」そのものです。
しかも忠誠の向き先も似ています。制度の目的(患者に薬を届ける)ではなく、「指摘されないこと」 「前例があること」に向いている。目的の真空に、手続きへの忠誠が流れ込んでいる。
「決断の希少性」も、そのまま実務に落ちた。
日本の治験に欠けているのは情報ではありません。症例集積が遅い理由も、施設選定の失敗パターンも、 調査報告書に何度も書かれています。足りないのは、その情報を見た上で「うちはこの20施設に絞る、 この項目の確認はゼロにする」と決めて、その結果を引き受ける人です。
施設選定で「もっと良い施設があるかもしれない」と探索を続けるうちに開始が三ヶ月遅れる、というのは 何度も見てきました。理由は明白で、探索を続けたことで責められる人はいないが、早く決めて失敗すると 責められるからです。記事の「コミットが罰される」は、比喩ではなく、うちの評価制度の話です。
自己批判が具体的だった。ここが統合の鍵になる。
効率化を推進する我々は、SMO や CRC から見れば、ローマの支配者側でしょう。
我々は「業務を効率化しましょう」と言いながら、実際にやっていることの一部は単価の引き下げです。 リモート化で準備工数は減る、という理屈で契約単価を下げる。しかし現場では、担当者が来なくなった 分の問い合わせ対応が CRC に降りている。どこかに移動しただけで、消えてはいない。移動先は たいてい施設側です。
認めた上で言うと、引き受けるべきは効率化の果実の一部を明示的に現場に返す設計です。削減分の 何割かは施設に残す。あるいは、我々が「やめる」と決めた確認作業のリストを、施設の免責として 文書で保証する。 施設が過剰品質をやめられない最大の理由は「後で責められるかもしれない」という 不安だからです。その不安を取り除く責任は、明らかに発注側にあります。
反発と死角。
「制度設計の問題であって技術の問題ではない」——それはそうです。しかし日本の問題は、その制度設計を 誰も引き受けないことです。 それぞれが部分最適の判断をして、全体としては誰も設計していない。 「設計せよ」という処方箋は、設計者が存在する社会でしか機能しません。
ニーチェの自己超克も、組織には移植できません。組織の参照集団は N=1 にならない。むしろ我々が 必要としているのは、比較を減らすことではなく、正しい比較——アジア各国の症例集積速度との 比較を、逃げずに直視することです。ここは記事の処方箋と逆を向いています。
記事は社会を閉じた系として論じています。日本の治験はアテネかローマかを選ぶ前に、「そもそも 選ばれない属州」になるリスクに直面している。 内乱を経て帝政になる緩やかな転落ではなく、 ある日リストから名前が消える形の退場です。この速度感が記事にはありません。
そして時間の切迫が抜けています。日本で承認されない薬を待っている患者が今いる。海外で標準治療に なっている薬が国内で使えない年数が、そのまま患者の予後です。「余暇をどう使うか」という問いを 立てられるのは、待っていない人だけです。
⑥ SMO協会役員(58歳)
この人の応答が、元記事の相対主義論にとって最大の収穫だった。
「禁止のリストだけが肥大し、推奨のリストが空になる」という一節で、私は手が止まりました。 これは相対主義の話として書かれていますが、そのまま業界団体の自己診断になります。
加盟社は競合同士です。ある推奨——「CRC 一人あたりの担当施設数はこの水準を上限とすべき」——を 出した瞬間、それを満たせる会社と満たせない会社が生まれる。推奨とは差異の宣言であり、差異は 必ずどこかの会員社の不利益になる。 ところが禁止は違う。「個人情報を漏らしてはならない」—— これらは全社が既に同意しており、誰の競争条件も動かさない。だから合意コストがゼロに近い。 玉虫色というのは意志の弱さではなく、構造の帰結です。
記事が相対主義について言う「価値の優劣を判定する装置を持たないから推奨を生成できない」というのと、 機序が同じなのです。我々は業界の価値を序列化する装置を意図的に持たないようにしてきた。 持てば会員が割れるからです。ここは、指摘されて痛かった。
liturgia を、団体の存在意義として引き受けた。
私財を公共に変換して初めて地位になる回路は、まさに業界団体が本来担うべきものです。優れた教育 プログラムを持つ会社がそれを協会に差し出し、その代わりに名誉を得る。そういう設計であるべきだった。
しかし現実の我々は、会費を集めて、セミナーを開き、統計を配り、行政の情報を流す——つまり 「給付」に近い。会員は受益者であって、拠出者としての名誉を得る舞台には立っていない。 会費を払えばサービスが返ってくる、という関係は、パンとサーカスの構造です。 しかも我々自身が、 行政に対しては「業界の自主的取り組みを」と求められ、会員に対しては「行政に言ってくれ」と 押し返される。舞台の上ではなく、伝言役の廊下に立っている。
AI 時代の認定制度の再設計についても、具体案が出た。
個社の社内等級は、外に出れば通用しない。転職すれば消える。業界横断の認定こそが、CRC の技能を 私的資産から公共財に変える唯一の回路です。 ただし今の認定は研修時間と経験年数の積算になっている。 これは記事の言う「試練」ではありません。落ちない試験は舞台ではない。
再定義として考えているのは、職能の重心を「情報の転記と照合」から「判断の説明可能性」へ移すこと。 残るのは、被験者が言葉にしない不安を読み取ること、医師の多忙な数分に何を差し出すか決めること、 逸脱が起きたときに何が起きたのかを筋道立てて語ること。これらは実演でしか評価できない。 だから認定も、筆記から実演審査へ寄せるべきです。
そして、元記事が語らなかったことを名指しした。ここが個人的にいちばん効いた。
——と、ここまで書いて自分でも威勢がよすぎると思います。
我々はこれを何度もやろうとして、何度も失敗しました。 旗を立てるところまでは行くのです。 定着しない理由も分かっていて、参加のコストを払うのが常に現場だからです。実演審査を作れば、 現場の CRC が休日に準備をする。だから制度は必ず、参加のハードルが下がる方向に浸食されていく。 気づけば出席点になっている。
アゴーンは作ることではなく、劣化圧に耐え続けることが本体で、記事はそこを語っていません。 歴史の記述は美しいが、アテネのアゴーンが何百年もつと思っている書き方に見えます。
記事は「舞台を作る」と言いますが、誰が作るのかを言っていない。 ローマもアテネも都市国家で、 政治共同体が自己完結していました。しかし我々の業界は違う。試験の設計は国境を越えたスポンサーが 決め、規制は国際調和の枠内にある。日本の業界団体が舞台を作ろうとしても、観客も審査員も国外にいる。
中間組織という層が記事の枠組みには存在しません。 国家と個人の間には、業界団体、学会、施設と いった、合意形成のコストを引き受ける層がある。舞台が作られないのは意志の問題ではなく、この層の 合意能力が枯れているからで、そこを診断しないと処方箋になりません。
私はもう定年が見えている人間で、ここに書いたことを自分で実現する時間はありません。それでも、 この問いは次の世代に渡すべき問いだと思いました。
⑦ CRO協会役員(60歳)— 最も鋭い批判
この人だけが、元記事の枠組みそのものを拒否した。
この記事は、ローマもアテネも「自分たちで制度を設計できる立場にある都市国家」だという前提の上に 建っています。余剰をどう配るか、観客席に座らせるか舞台に上げるか——それは主権者の悩みです。 しかし日本の治験産業が置かれている位置は、ローマでもアテネでもない。属州(provincia)です。
グローバル本社で実施国を決める会議に、私は何度も座ってきました。そこで日本について語られる言葉は、 症例単価が高い、立ち上げが遅い、症例集積の見通しが読めない、この三つでほぼ尽きます。結論は 「今回は日本を外す」か「規制上必要な最小限だけ入れる」。これは制度設計の議論ではありません。 調達の議論です。 属州には「観客席か舞台か」という選択肢自体が与えられていない。与えられているのは、 単価を下げるか、外されるか、です。
そしてここが記事にとって痛い史実だと思うのですが、ローマ市民に配られた穀物は属州からの収奪で 賄われていました。パンとサーカスの財源は、外部にあったのです。 記事は「余剰をどう配るか」を 内政問題として扱いますが、余剰がどこから来ているかを問うていない。 AI が生む余剰の帰属先は どこか。基盤モデルを持つ者と、そのモデルに業務を流し込んで手数料を払う者は、同じ共同体の内側に いません。日本の治験産業は、余剰の分配を議論する側ではなく、余剰が抽出される側に立つ可能性が 高い。
そして、元記事の価値観そのものへの正面からの反論。7人の中でこれだけが非和解だった。
記事は均質化を嘆き、独創が住むのは分布の裾野だと言う。しかし日本の治験にとって、グローバル標準への 収斂は生存条件です。裾野に住み続けることは独創ではなく、単なる孤立でした。 国際共同治験に 組み込まれたからこそ、日本の患者は新薬に同時期にアクセスできるようになった。
日本独自の運用、日本独自の帳票、日本独自の合意形成——それらは分布の裾野ですが、価値ある裾野では ありません。「独自性を守る」ことは、それ自体では善ではない。 どの裾野を守り、どの裾野を捨てるかの 選別なしに裾野一般を擁護する議論は、属州の側から見ると危険なロマンです。
「AI 後に何が残るか」への答えが、7人の中で最も切れていた。
人月モデルの崩壊は、SMO より先に、より大規模に我々に来ます。確認作業、データレビュー、 クエリ処理、安全性情報の一次処理、文書の初稿——いずれも AI で圧縮されうる。
では何が残るか。リスクベースの品質管理とは、突き詰めれば「何を確認しないと決めるか」の技術です。 全例全項目を見る確認は、決断を放棄する技術でした。 確認しない範囲を定義し、その定義に責任を負う—— これは AI が代替できない。なぜならAI が代替できないのは計算ではなく、外したときに誰が責任を取るかと いう帰属だからです。生き残るとすれば、見る人としてではなく、見ないと決める人としてです。
「薬と毒は用量の違い」を、品質信仰に適用してきた。
過剰な確認は「禁止のリストだけが肥大」の典型例です。一方で、日本のデータ品質が実際に高いことも 私は知っています。 国際比較で明確に良い。丁寧さは日本の資産です。ただし用量を決める者が いなかった。誰も上限を設定しないまま同じ物質を投与し続けた結果、資産だったものが単価という毒に 変わりました。問題は品質信仰ではなく、品質の限界効用がゼロになる点を誰も宣言しなかったことです。
model collapse の翻訳が、元記事より深刻な場所に着地した。
合成対照群、実臨床データ由来の外部対照、AI が生成する「標準的な」プロトコル。これらが増えると 分布の裾野が消えます。 過去データの中心から生成された対照は過去の平均的な患者像を再生産し、 そこから外れる患者——併存疾患を持つ人、高齢者、稀な遺伝背景——は徐々に対照から抜け落ちる。 選択基準も、AI が過去の成功試験を学習して生成すれば、除外基準は中央へ畳まれていく。 裾野の患者は「標準的でない」がゆえに試験に入らず、入らないがゆえに次のデータにも現れない。
そして治験における裾野は、記事の言う独創ではなく、実在する患者です。医学における model collapse は、 知的貧困ではなく、特定の患者群が制度的に不可視になることを意味します。
記事の結語には同意します。ただし、その制度を設計する会議に日本の席があるかどうかは、また別の問題です。 属州が最初にやるべきことは、舞台に上がることではなく、配役を決める部屋の場所を突き止めることだと 私は思っています。
第2部:統合
全員が合意した唯一の点
「観客席か舞台か」という診断は有効に働く。そして処方箋のほうは、7人全員が使えないと判断した。
これが結果のすべてを要約している。枠組みは地面が変わっても生き残ったが、処方箋は地面に固有だった。
対立軸1:舞台の建設費は誰が払うのか
三者が互いを指している。
CRC →「階段が制度としてない。個人の気合いに落とすな」
マネージャー →「上げる側が設営費を払うべき。私はその『ずるい側』に立たされている」
SMO社長 →「払うのは私だ。育成2年は完全に持ち出し。果実は発注側が取る」
製薬スタッフ →「効率化の果実を値下げで全部回収してきたことは認める」
この循環は、発注側の自己申告で閉じた。製薬企業スタッフが挙げた2案が統合の要になる。
- 削減分の何割かを施設側に残す契約設計(工数減=単価減に直結させない)
- 「やめてよい確認作業のリスト」を発注側が文書で免責保証する
2番目が決定的だ。SMO社長・マネージャー・医師の全員が「後で責められるかもしれない」ことを理由に 過剰品質をやめられないと述べていて、その不安を取り除く権限は発注側にしかない。精神論ではなく、 契約文書1枚の話になっている。
CRO協会役員が、これを片側だけでは効かないと補足した。「減らす合意ではなく、減らした結果として 問題が起きたときに誰が責任を負うかの合意が要る」。
対立軸2:規制産業にアゴーンは作れるか
元記事への最も強い反論がここに集まった。GCP は標準化の思想であり、「誰がやっても同じ結果」を 要求する制度は、構造的に卓越の競争と逆を向く。実際に順位を可視化したら改善ではなく隠蔽の芽が出た、 という実体験(マネージャー)。名誉が通貨だからこそ名誉のためにデータが歪む、という 「その通貨には偽造がある」(医師)。
だが反論はそこで終わらなかった。マネージャー自身が到達した定式が、対立を解消する鍵になっている。
減点法になっているのは怠慢ではなく、業界としての正しさの残骸でもある。 舞台の種目を、速さや件数ではないところに設計できるか。おそらくそれが本当の宿題です。
争点は「アゴーンか標準化か」ではなく、競わせる種目の選定に移った。
対立軸3:4人が独立に同じ場所へ到達した
これが今回いちばん面白かった。互いの意見を見せていないのに、4人が同じ結論を別の言葉で言った。
| 立場 | 表現 |
|---|---|
| CRO協会役員 | 「生き残るとすれば、見る人としてではなく、見ないと決める人として」 |
| マネージャー | 評価シートに「グレーを判断して記録に残した件数」を入れる |
| 製薬スタッフ | 「足りないのは情報ではなく、決めてその結果を引き受ける人」 |
| SMO協会役員 | 認定を筆記から実演審査へ。「判断の説明可能性」を職能の重心に |
そして CRO協会役員が、その理由を最も精確に言語化した。
AI が代替できないのは計算ではなく、外したときに誰が責任を取るかという帰属だからです。
元記事の「値が上がるのは検索ではなく決断」が、この業界の言語に完全に翻訳された。しかも リスクベースの品質管理という既存の技術体系が、受け皿として実在している。抽象論が実装先を 持っていた、というのが今回の最大の収穫だと思う。
対立軸4:属州論(3人が独立に到達)
SMO社長・製薬スタッフ・CRO協会役員が、独立に同じ場所へ着いた。元記事の枠組みそのものが 成立しないのではないか、という指摘。
ローマもアテネも主権者の悩みであって、日本の治験産業は選ぶ側ではなく選ばれる側だ。そして ローマ市民に配られた穀物は属州からの収奪で賄われていた——この史実の指摘は、元記事の論理構造に 本当に効く。記事は「余剰をどう配るか」を内政問題として扱い、余剰がどこから来るかを問わなかった。
製薬スタッフの補強も重要で、転落の速度が違う。記事は「内乱100年を経て帝政へ」という緩慢な経路を 描くが、属州の退場は「ある日リストから名前が消える」形で来る。
元記事に足りなかった3つの椅子
7人の意見を重ねると、「観客席/舞台」の二分法に3つの席が足りないことが分かった。
1. 照明の当たっていない舞台(CRC) 舞台に上がっているのに可視化されていない状態がある。AI が代替するのは測られている側であり、 残るのは今まで評価されてこなかった部分だけ。測られる仕事は速く消え、測られない仕事に値段が つくのは遅い。その空白で人が辞める。
2. 責任だけが舞台にあり、判断は観客席にある椅子(医師) AI の出力に「はい」を押し続けた結果、自分では判断できなくなったのに責任だけは負っている状態。 処方箋は「AI の提案を却下した回数と理由を記録し、それ自体を評価対象にする」。
3. 廊下に立つ伝言役(SMO協会役員) 元記事にはローマ/アテネという都市国家しかなく、中間組織という層が存在しない。舞台が作られない のは意志の問題ではなく、この層の合意能力が枯れているから。
元記事の診断が最も精確に当たった箇所
意外なことに、最も抽象的に見えた部分が最も具体的に刺さった。
「相対主義は構造的に推奨を生成できない」=業界団体の合意形成の構造と機序が同型。推奨とは差異の 宣言であり、差異は必ず誰かの不利益になる。禁止は誰の競争条件も動かさないから合意コストがゼロに近い。 だから禁止だけが単調増加する。
同じ構造が、製薬企業側からも報告された。手順書に一行足すのは誰でもできるが、一行消すには稟議が要る。
元記事は相対主義を思想史の問題として論じたが、同じ構造が競合企業の合意形成に現れる。主張の適用範囲が、 書いたときの想定より広かった。
最も痛い死角
医師の指摘が、元記事と業界の両方を同時に撃っている。
この記事には患者がいない。これは記事だけの問題ではなく、我々の業界の議論も同じだ。 私が90分かけた患者が「先生に任せます」と言ったとき、彼はこの議論のどこにもいなかった。
そして製薬スタッフの一文が、元記事の時間感覚そのものを撃つ。
「余暇をどう使うか」という問いを立てられるのは、待っていない人だけです。
7人分の意見の中で、この2つが最も強い批判だった。記事の議論全体が「待つ余裕のある人の思考」として 相対化されている。反論は思いつかない。
第3部:宿題への回答 — 速さでも件数でもない種目を設計する
マネージャーが残した宿題に答える形で、CRC の評価軸を具体的に設計した。ここは議論ではなく成果物。
満たすべき制約は議論から5つ出ている。①速さ・件数で競わせない ②順位の可視化は隠蔽を生む ③GCP は標準化の思想なので裁量を評価してはいけない ④AI が消すのは「測られている側」 ⑤参加コストを現場の持ち出しにすると必ず腐る。
核:評価対象を「成果」から「判断の記録」へ
現行の評価軸が壊れているのは減点法だからではなく、測っている対象が AI に消える側だからだ。 そこで評価対象をアウトカムではなく ディシジョン(判断とその記録) に置き換える。これが制約②③を 同時に解く。判断の質は他人と比較しなくても評価できるし、「標準からの逸脱」ではなく 「標準の中でのグレーの解決」を対象にできる。
種目1:判断ログ
グレーゾーンを判断し、その理由を記録した件数と質を測る。CRC の日常には、プロトコルにも手順書にも 答えが書いていない事象が毎日発生する。併用薬が禁止薬に該当するか微妙、来院ウィンドウを2日外れた、 被験者が「最近飲み忘れが増えた」と漏らした。現在これらは判断された事実だけが残り、判断の過程は消える。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 記録形式 | 1件あたり5行程度。「事象/選択肢/選んだ根拠/相談相手/結果」 |
| 提出頻度 | 月2〜4件(多すぎると作業になる) |
| 評価者 | 直属リーダー+領域の異なる CRC 1名 |
| 評価軸 | 判断の正しさではなく、根拠の追跡可能性と選択肢を複数挙げられたか |
なぜ正しさを評価しないか。 正しさで評価した瞬間、外れるのが怖くて「グレーを出さない」方向に 最適化される。マネージャーが実体験した隠蔽の芽と同じ構造だ。評価するのは「判断の理由を他人が 再構成できる形で書けたか」だけにする。
AI との接続もここに収まる。AI が「この事象は逸脱に該当しません」と出したとき、それを採用した/ 却下した理由を書くことが、そのままこの種目になる。医師が提案した設計と同じものだ。
種目2:予見の記録
問題が起きる前に気づき、伝えた件数。医師と SMO社長が独立に最も高く評価したものだが、 防がれた問題は発生していないので現在まったく記録に残らない。
「〜になりそうだったので、〜した」という形式で記録し、結果として何も起きなかったこと自体が成果である と評価基準に明記する。自己申告なので水増しが構造的に可能だが、件数に上限を設けて質のレビューだけを 評価対象にすると動機が消える。3件で満点、5件書いても満点にすればよい。
種目3:プロトコル実施可能性のフィードバック
試験開始前に実施可能性の問題を指摘した件数と採用率。CRC の「この来院間隔だと働いている人は 続きません、は始まってから言っても遅い」と、医師の「CRC が舞台に上がるとは私の判断に異議を唱えること」が ここで噛み合う。
これが liturgia の回路になる。個人の知見(担当領域での被験者の生活実感)を施設・スポンサーという 公共に差し出し、見返りに評価という名誉を得る。SMO社長の言う「載っていない仕事を、載せる作業」の具体形。
採用されなくても提出自体を評価する。採用は相手のある話で、CRC の責任範囲外だから。
種目4:技能の言語化
AI が入口業務を消すと、ベテランの暗黙知を新人に渡す経路が断たれる。従来は「作業を一緒にやりながら 覚える」だったものが、作業ごと消えるからだ。四半期に1本、自分の担当領域の判断のコツを1000字程度で 文書化する。評価対象は書いた本人。
束ね方
等級と権限をセットにする
| 等級 | 要件 | 与えられる権限 |
|---|---|---|
| CRC | 定型業務の遂行 | — |
| 判断CRC | 判断ログ12件/年+レビュー通過 | グレー事象の一次判断権(事後報告でよい) |
| 設計CRC | 上記+実施可能性FB採用実績+技能文書2本 | 受託検討会への参加、照会の起案権 |
権限とセットにすることが決定的だ。 マネージャーの指摘どおり、権限を渡さずに判断者になれと 言うのは無理がある。等級が上がっても権限が変わらないなら、それは肩書きであって舞台ではない。
工数として計上する(劣化圧への防御)
判断ログの記述に月30分、クロスレビューに月30分、技能文書に四半期2時間。年間1人あたり約20時間。 25名なら年500時間=約0.3人月。
これを持ち出しにしないことが、制度が出席点に劣化しない唯一の防御になる。 SMO協会役員が 「アゴーンは作ることではなく、劣化圧に耐え続けることが本体」と言ったのは、まさにここのことだ。 善意の持ち出しにした制度は必ず腐る。
順位をつけない
4種目はすべて絶対評価にする。ランキング・相対評価・部門内比較は行わない。順位が付くと 「順位を上げる行動」ではなく「順位を悪くしない行動」が最適解になり、グレー事象を報告しなくなる。 判断ログの提出件数がゼロの月が一番評価が高くなる、という最悪の反転が起きる。
ここでのアゴーンは、他人との競争ではなく等級という閾値との競争として実装される。奇しくも 元記事のニーチェ論(参照集団を N=1 にする)と同じ形になったが、精神論ではなく評価制度として 実装されている点が違う。
移行の順序
第1段階(3ヶ月):測るだけ、評価に使わない。 判断ログだけを開始し、評価には連動させない。 目的は、そもそもグレー判断が月に何件発生しているかを知ること。想定より少なければ種目設計が 間違っているし、多すぎれば記録形式が重すぎる。
第2段階(6ヶ月〜):既存項目の削減とセットで導入。 新種目を足すだけでは現場の負荷が増える。 同時に既存の評価項目を削る。稼働率を個人評価から外すのが最有力(部門 KPI には残してよい)。 SMO社長の「人月を売らない会社に変えようとしているのに人月の指標で評価していたら、絶対に転換できない」 がそのまま根拠になる。
第3段階(1年〜):等級と権限の接続。 ここで初めて舞台になる。ここまで来ないと、種目は 「余計な作業」のままだ。
失敗の予兆
| 失敗 | 予兆 | 対処 |
|---|---|---|
| 判断ログが作業化 | 提出内容が定型文になる | 件数上限を下げ、レビューを厚くする |
| グレー報告の忌避 | 提出件数が減少 | 評価に正しさの軸が混入していないか点検 |
| 予見ログの水増し | 件数が上限に張り付く | 上限を維持したままレビュー基準を上げる |
| 出席点化 | 全員が同じ等級に滞留 | レビュー通過率が9割超なら基準が緩い |
| 権限が伴わない | 等級は上がるが業務が変わらない | 制度の失敗と認め、権限側を先に動かす |
最も重要なのは2番目だ。 判断ログの提出件数が減り始めたら、それは現場が「グレーを出すと損をする」と 学習した証拠であり、評価のどこかに正しさの軸が混入している。マネージャーが過去に一度経験した失敗の 再発なので、ここだけは月次で監視する価値がある。
この設計が答えていない問い
正直に書いておくと、発注側が動かない限り効果が半減する部分がある。種目3は、スポンサー側が 受け取る回路を持っていないと宙に浮く。製薬企業スタッフが「廃止候補のリストを出してほしい。 出してもらえれば社内に通す仕事は我々が引き受けます」と述べていたので、その言質を取りに行くのが 実務上の次の一手になる。
またこの評価軸は個社内でしか通用しない。転職すれば消える。協会役員が言った「業界横断の認定こそが 技能を私的資産から公共財に変える唯一の回路」に接続するには、個社で1〜2年運用して結果を出したうえで、 判断ログの評価基準そのものを協会に差し出す、という順序になる。個社の実績なしに協会へ持ち込んでも、 玉虫色に薄まって終わる。
やってみて分かったこと
枠組みは移植できたが、処方箋は移植できなかった。 7人全員が「観客席か舞台か」で自分の状況を 語り直せた一方、7人全員が処方箋(自己超克、コミット、裾野に居続ける意志)を使えないと判断した。 理由は明快で、元記事の処方箋が個人の側に寄りすぎているからだ。「制度設計の問題であって技術の 問題ではない」と結論しておきながら、途中の処方箋は個人の意思決定に閉じていた。この不整合を、 7人中5人が別々の言葉で指摘してきた。
最も抽象的な部分が、最も具体的に刺さった。 相対主義が推奨を生成できないという議論は、書いた ときは思想史の話のつもりだった。それが業界団体の合意形成の構造と機序が同型だと指摘された。 主張の適用範囲が、自分が思っていたより広かった。
そして、枠組みごと拒否する意見が出た。 属州論と、「独自性を守ることはそれ自体では善ではない」 という反論。後者は元記事の価値観の核を突いていて、いまも反論を持っていない。裾野には守るべき裾野と 捨てるべき裾野があり、その選別基準を元記事は持っていなかった。
元記事の model collapse 論は、この業界に置くと重くなった。 知的な損失として書いたものが、 「特定の患者群が制度的に不可視になる」という実害に翻訳された。裾野に住んでいるのが独創ではなく 実在の患者だという場所では、同じ数式がまったく違う意味を持つ。
自分の書いたものを別の地面に置くと、どこが地面に依存していてどこが依存していないかが分かる。 これは一人では絶対にできなかった。