評価関数を定めた瞬間、価値判断は消えたのではなく隠れた — 「教会の借り物の資本」から

要約

『テクノロジカル・リパブリック』を読んでいて、「教会の借り物の資本」という比喩が分からず、 解説を求めたところから始まった対話。読み進めるうちに、話は文化相対主義からシリコンバレー、 効果的利他主義へと連なり、最後に**評価関数の設計問題**に着地した。

「教会の借り物の資本」とは、道徳的・精神的な蓄え——人間の尊厳、平等、隣人への信頼、共同体への 帰属意識、「自分より大きな何かのために生きる」という意味づけ——を指す。自由民主主義はこれを **自前で作らず、キリスト教の伝統から借りて食いつないできた**、という診断だ。権利と市場経済は 手続きは決められても、「何のために戦うのか、何を守るのか」は与えてくれない。 **借り物の資本は、補充しなければいずれ底をつく。**

そこから、本が「価値判断を避けるという同じ態度」で人類学とシリコンバレーを一本の糸で結んでいる ことが見えてくる。文化相対主義(ベネディクト)は「どの文化も等しく価値がある」という寛容の思想 だったが、突き詰めると**何が善くて何が悪いかを言えなくなる**。寛容が、価値判断の放棄に化ける。 テック・エリートはこの「道徳的不可知論」を受け継いでいる、と本は批判する。

効果的利他主義(EA)もまた、**別のやり方で価値判断を回避している**。単一の物差し(厚生の量)で すべてを測ることで、「よく生きるとは何か」「人生の意味とは何か」といった数値化できない問いを 丸ごとスキップしてしまう。

ここで自分なりに要約した——**「普遍的な KPI を定めて評価関数とした結果、汎用的な指標は得られたが、 どうあるべきかという道徳的観念は無視されることになったのではないか」**。

返ってきた訂正が、この対話の核心だった。**「無視された」のではなく「評価関数の中に暗黙の価値判断が 埋め込まれ、それが不問に付されたまま最適化が回った」**。つまり (1) 目的関数の選定そのものが価値判断 であり(「厚生の最大化こそが善」は中立に見えて強い道徳的立場)、(2) これは **Goodhart の法則 / specification gaming** の構図そのもので、**測定対象に入らないものは、悪いと判断されたわけでもないのに、 評価関数に載らないという理由だけで構造的に脱落していく**。

要点

1. 「教会の借り物の資本」とは何か

  • ここでの「資本」は金ではなく、道徳的・精神的な蓄え — 人間の尊厳、平等、隣人への信頼、共同体への帰属意識、「自分より大きな何かのために生きる」意味づけ
  • これらは キリスト教の伝統が長い時間をかけて蓄積したものであって、自由民主主義が生み出したものではない
  • 自由民主主義が掲げる「資本主義」と「個人の権利」だけでは、人々の心を支えるにはか細く、弱く、狭すぎる。 権利と市場は手続きは決められても、**「何のために戦うのか、何を守るのか」**は与えてくれない
  • → だから democracy は、宗教が蓄えた道徳的資本を**借りて(=自前で再生産しないまま消費して)**きた

警告としての比喩:借り物の資本は、補充しなければいずれ底をつく。 預金を取り崩すだけ、相続財産を使い果たすだけ、というイメージ。

2. 「価値判断を避ける」という一本の糸

本は、人類学とシリコンバレーを同じ態度で結んでいる。

何をしたか 帰結
文化相対主義(ベネディクト) 「どの文化も等しく価値がある」— 自分たちの基準で他文化を裁くな、という humane な動機 突き詰めると何が善くて何が悪いかを言えなくなる寛容が、価値判断の放棄に化ける
シリコンバレー この「道徳的不可知論」を受け継ぐ 「これが正しい生き方だ」「これが守るべき価値だ」と言うことを避ける
効果的利他主義(EA) 一見むしろ積極的に「善いことをしよう」と言う しかし単一の物差し(厚生の量)ですべてを測ることで、「よく生きるとは何か」「人生の意味」といった数値化できない問いを丸ごとスキップする

→ 創業者たちは「道徳に反してはいないが、道徳観念がない(amoral)」と評される。 悪人なのではなく、そもそも善悪の判断を下さない

3. 効果的利他主義(EA)と功利主義の関係

  • 功利主義:あらゆる行為の正しさは厚生の最大化で決まる、という生き方全体を覆う完結した道徳理論
  • EA:範囲が狭く、「"善をなす"と決めた分の資源を、どう使えば最も効果的か」という方法論・実践
  • 関係は 功利主義 ⊃ EA の土台。EA は功利主義を出発点に「証拠・測定・費用対効果」という方法論を 前面に出した実践版

4. 核心 — 評価関数を定めた瞬間、価値判断は消えたのではなく隠れた

自分なりの要約:「普遍的な KPI を評価関数にした結果、汎用的な指標は得られたが、 どうあるべきかという道徳的観念は無視されたのではないか」

返ってきた訂正 —— 「無視された」のではなく、こうだ

評価関数の中に暗黙の価値判断が埋め込まれ、それが不問に付されたまま最適化が回った

失敗モードは二つ。

  1. 目的関数の選定そのものが価値判断である

    • 「厚生の最大化こそが善」は、中立的・客観的な前提に見えて、実は一つの強い道徳的立場
    • にもかかわらず、それを「測定」という客観性の衣で覆う
    • "どうあるべきか"という問いに答えたのではなく、前提の中に隠して飛ばしている。 問いを解いたのではなく、解消(dissolve)したように見せているだけ
  2. Goodhart の法則 / specification gaming の構図そのもの

    • 本来の目的関数(「よく生きるとは何か」「共同体への帰属」「徳」)は定式化が極めて難しい
    • そこで定式化しやすい**プロキシ(厚生の量)**を代わりに最適化する
    • → 測れる代理指標は伸びても、測れない本来の価値からはどんどん乖離していく
    • 測定対象に入らないものは、悪いと判断されたわけでもないのに、 「評価関数に載らない」という理由だけで構造的に脱落していく

→ 一行にまとめると: 「普遍的KPIを評価関数に据えた結果、(1) その指標の選定自体に含まれる価値判断が不問にされ、 (2) 定式化できない"どうあるべきか"は、プロキシ最適化の過程で構造的に脱落した」

5. では、どうするか(本の処方箋)

  • アーヴィング・クリストル(ネオコンの祖)の主張: 「文明が直面する本当に難しい仕事は、世俗の合理主義をさらに改良することではなく、 弱りきった古い宗教の伝統に再び生命を吹き込むことだ」
  • つまり 「西洋の問題は、合理主義が不完全なことではない。意味や道徳の土台だった宗教を失ったことだ。 だから合理主義をいくら磨いても解決しない」
  • 左派エリートへの批判も同じ論点:「正しさ(手続き的な公正・平等)ばかりを追い、 善(何が良い生き方かという中身)を打ち捨てた」
  • ロールズの徳のリスト(公平な協力・礼節・寛容・理性的態度)も、 **「市民社会を回すための最低限の、誰も反対しないリスト」**にすぎず、 公的領域を文化的に豊かにする力はない、と切り捨てられる

軌跡(対話そのまま)

問い — 「教会の借り物の資本」とは何か

テクノロジカルリパブリックという本を読んでいるのですが、次のページの記載がよくわからなくて解説して欲しいです。特に教会の借り物の資本 のところ。何が言いたいのでしょうか

(※ 書籍の該当ページを引用していたが、公開にあたり削除した)

「教会の借り物の資本(borrowed capital from the church)」というのは、スミスが使っている比喩で、ポイントは「資本(蓄え)を自分では作らずに、別のところから借りて食いつないでいる」という構図です。

ここでいう「資本」はお金ではなく、道徳的・精神的な蓄えのことを指しています。つまり、人間の尊厳、平等、隣人への信頼、共同体への帰属意識、善や徳という価値観、そして「自分より大きな何かのために生きる」という意味づけ——こうした、人々の心と社会をまとめる土台となるリソースです。スミスの主張は、こうした道徳的リソースはもともとキリスト教(教会)の伝統が長い時間をかけて蓄積してきたものであって、自由民主主義そのものが生み出したものではない、ということです。

自由民主主義が公式に掲げているのは「資本主義」と「個人の権利」ですが、本文が言うように、それだけでは人々の心と精神を支えるには「あまりにか細く、弱く、狭すぎる」。権利と市場経済は手続きやルールは決められても、「何のために戦うのか、何を守るのか」という答えは与えてくれない。そこで democracy は、本来は宗教が蓄えていた道徳的資本を**借りて(=自前で再生産しないまま消費して)**社会を成り立たせてきた、という診断です。

だからこの比喩には警告が込められています。借り物の資本は、補充しなければいずれ底をつく。預金を取り崩すだけ、あるいは相続財産を使い果たすだけ、というイメージです。「今日のエリート文化が組織宗教への攻撃を続けるなら、何が国を持続させるのか」という直後の問いは、まさに「蓄えの源(教会)を否定し続けたら、取り崩している資本が尽きたとき社会は何で持つのか」という意味になります。

この後にベラーの「市民宗教(civil religion)」が出てくるのは、「では教会に代わる蓄えの源を作れないか?」という代替案の検討です。著者(カープ)の最終的な主張は最後の段落にあって、シリコンバレーのエリートは優秀だが世俗主義一辺倒で精神的な蓄えを失った世代であり、アメリカ文化はもう一度「善と徳」を公の場で安全に語れるようにしなければならない、という流れにつながっていきます。

補足すると、この「自由主義は宗教の道徳的遺産を食いつぶしている」という議論はスミス独自のものではなく、ニーチェ、トクヴィル、近年だとチャールズ・テイラーやトム・ホランドなども形を変えて論じている古典的なテーマです。気になれば、その系譜も解説できます。

なるほど、教会がもたらしたキリスト教的宗教観がねづいて帰属意識が緩く形成されていたということですね。

市民宗教という言葉が急に出てきたのですが、これはなんでしょうか?なにか一般に知られた概念なんでしょうか。おもいあたるものがなくて。

はい、これは社会学・宗教学ではよく知られた概念で、思いつかなくても無理はないのですが、れっきとした学術用語です。本文でも引用されているロバート・N・ベラーの1967年の論文「Civil Religion in America(アメリカの市民宗教)」で一躍有名になりました。

おおまかに言うと、市民宗教とは「国家そのものを、宗教に似た形で神聖化している共有の信念・象徴・儀礼の体系」のことです。教会のような特定の宗教組織とは別物で、特定の教義や神を強制するわけではないけれど、機能としては宗教とそっくりに働く。国民をひとつにまとめ、「われわれは何者で、どこから来て、どこへ向かうのか」という物語を与える役割を担います。本文でベラーが「教会と並び立つもの」「教会とは明確に一線を画すもの」と言っているのは、まさにこの「宗教ではないが宗教的に機能するもう一つの体系」という意味です。

アメリカの具体例を挙げると、イメージしやすいと思います。大統領の就任演説で必ず神に言及すること、紙幣の「In God We Trust」、忠誠の誓いの「one nation under God」、独立宣言や憲法を聖典のように扱うこと、建国の父たちを半ば聖人のように敬うこと、リンカーンを殉教者、ワシントンを国父として語ること、ゲティスバーグを聖地のように扱うこと、独立記念日・戦没将兵追悼記念日・感謝祭といった国民的な祭日(儀礼)——こうしたものの総体が市民宗教です。本文に出てくる「聖書に似た元型」「出エジプト記からの引用」「犠牲と復活の物語」というのも、まさにこれの具体例で、イギリスからの独立を「エジプト脱出(出エジプト)」になぞらえたり、南北戦争の戦死者を「国家のための犠牲と再生」の物語として語ったりする、という話です。

源流をたどると、この言葉自体はもっと古く、ルソーが『社会契約論』(1762年)で「religion civile(市民宗教)」として論じたのが始まりです。ルソーは、国家を支えるには市民が共有する最小限の宗教的感情が必要だと考えました。ベラーはそれをアメリカという具体的な対象に当てはめ直したわけです。

本書の文脈での位置づけを補足すると、市民宗教は前回の「教会の借り物の資本」に対する代替案の候補として出てきています。つまり「教会(組織宗教)が尽きかけているなら、特定の教会に縛られない市民宗教を帰属意識の土台にできないか?」という発想です。ただしカープはすぐに、「人々は今や、公の場で市民宗教的なものを控えめに参照することにすら懐疑的・否定的になっている」と釘を刺していて、その代替案も簡単には機能しない、という悲観的な見立てにつなげています。

文化相対主義から、なぜシリコンバレーに話が飛ぶのか

このページも解説お願いします。未開の地の人たちの生き様が他と等しく重要だという思想から急にシリコンバレーの話に飛んで文脈がわからなくて

(※ 書籍の該当ページを引用していたが、公開にあたり削除した)

つながりが見えにくいのは当然で、ここは「価値判断を避ける(=何が善か悪か、何が優れた生き方かを言わない)という同じ態度」という一本の糸で、人類学とシリコンバレーを結んでいるんです。著者が「同じ知的伝統の延長線上にある」と言っているのは、まさにこの糸のことです。順を追って整理します。

まず**ベネディクト(文化相対主義)**の話。彼女は未開社会を「等しく価値のある生活の型」だと捉え、どの文化も優劣はつけられない、と説きました。これ自体はもともと「寛容」のための立派な思想で、自分たちの基準で他文化を裁くな、という humane な動機から出ています。ところが著者が指摘する「予期せぬ事態」とは、その裏返しです。「どの文化も等しく価値がある」を突き詰めると、そもそも何が善くて何が悪いかという道徳的な判断そのものを下せなくなる(道徳的精査の対象から外れる)。寛容のはずが、価値判断の放棄に化けてしまう、という構図です。

次に著者は「現在のシリコンバレーも同じ伝統の延長だ」と飛びます。ここがジャンプに見えるところですが、論理はこうです——テック・エリートは、ベネディクト流の「文化的・道徳的不可知論(=何が善いかは決められない/決めない、という態度)」を受け継いでいる、と。彼らは「これが正しい生き方だ」「これが守るべき価値だ」と言うことを避ける。前回までの「帰属意識」「善と徳」「共同体への信頼」といった、社会を支える土台を、そもそも語ろうとしない世代だ、という批判です。

ここで効果的利他主義(EA)とシンガーが出てくるのは、一見すると逆に見えるかもしれません(EAはむしろ積極的に「善いことをしよう」と言うので)。しかし著者の狙いは、EAもまた別のやり方で難しい価値判断を回避している、という点にあります。シンガーの「倫理的普遍主義」は、「人間であれラッコであれ、幸福は等しく大切」という、単一の物差し(=幸福・厚生の量)であらゆるものを測る思想です。これは直感的で分かりやすく強力な反面、「よく生きるとは何か」「人生の意味とは何か」「ナショナル・アイデンティティに境界はあるのか」といった、数値化できない厄介な問いを丸ごとスキップしてしまう。スクルートンが「空虚な功利主義」と批判したのはここで、すべてを一つの基準に還元するから中身(意味や徳や帰属)が抜け落ちる、ということです。

だから結論として、シリコンバレーの創業者たちは「道徳に反してはいないが、道徳観念がない(amoral)」と評されます。悪人なのではなく、そもそも善悪の判断を下さず、価値体系・世界観・共同体の意義のすべてに懐疑的だ、と。これが本書の大きな主張——「テック・エリートは才能と力はあるが、国家や共同体を支える道徳的・市民的な枠組みを欠いている」——につながっていきます。

最後のマーガレット・ミードと「民族誌的現在」の段落は、相対主義批判のダメ押しです。ミード(ベネディクトの教え子)は『サモアの思春期』で、調査対象の少女たちを歴史から切り離し、観察した瞬間の「現在形」に凍結して描いた。「泳ぎ、食べ、話し、知る」と現在形で固定された、という記述がそれです。つまり研究対象を「変化も発展もしない、時間の外に固定された存在」として扱った——これもまた、相手を歴史を生きる対等な主体として真剣に受け止めない態度の一例として挙げられているわけです。

整理すると、このページ全体のメッセージは「寛容や中立を装った価値判断の放棄(相対主義・不可知論・空虚な普遍主義)が、人類学からシリコンバレーまで一本の系譜でつながっており、その結果として善・徳・意味・帰属を語れない文化が生まれた」ということになります。前のページの「教会の借り物の資本が尽きる」という話と、きれいに地続きになっているのが分かると思います。

効果的利他主義は、功利主義と同じか

効果的な利他主義ってそもそも何をさす概念なんですか?功利主義と同じですが?

いい質問で、両者は密接に関係していますがイコールではありません。順に説明します。

効果的利他主義(Effective Altruism, EA)とは何か

ひとことで言うと、「善いことをするなら、限られた資源(お金・時間・キャリア)で“最大限の善”を生むやり方を、感情や慣習ではなく証拠と理性で選ぼう」という運動・思想です。2009〜2011年頃にオックスフォード大学周辺(ウィリアム・マッカスキル、トビー・オードら)から始まり、シンガーの倫理思想を実践的な運動に落とし込んだものです。

ポイントは「善意の量」ではなく「効果(=実際に救えた命や減らせた苦しみの量)」を重視するところです。具体的には:

  • 費用対効果での寄付:同じ寄付でも、先進国の手厚い医療に使うより、途上国のマラリア対策の蚊帳に使った方が、はるかに少額で多くの命を救える——だから後者を選ぶ。
  • キャリア選択(80,000 Hours):人生の労働時間を「最も善を生める仕事」に振り向ける。
  • Earning to give:あえて高収入の仕事に就き、稼いだ金を効果的な慈善に大量に寄付する、という発想。
  • 問題の優先順位づけ:「重要性 × 見過ごされ度 × 解決可能性」で取り組むべき課題を選ぶ。この延長で近年は、動物福祉(工場畜産)や、AIの安全性・パンデミックといった「人類の長期的存続リスク(ロングターミズム)」に重心が移っています。

功利主義との関係

おっしゃる通り、思想的なDNAは功利主義(=幸福・厚生の総量を最大化するのが善)そのものです。シンガー自身が筋金入りの功利主義者ですし、「誰の幸福も等しく数える」「結果(アウトカム)で判断する」という発想は完全に功利主義的です。

ただ、EAの提唱者は「EAは道徳理論ではなく“問い”や“プロジェクト”だ」と主張して、両者を区別します。違いを整理すると:

  • 功利主義は「あらゆる行為の正しさは厚生の最大化で決まる」という、生き方全体を覆う完結した道徳理論です。
  • EAは範囲が狭く、「“善をなす”と決めた分の資源を、どう使えば最も効果的か」という方法論・実践に焦点があります。原理上は功利主義者でなくても(たとえばキリスト教徒でも)「どうせ寄付するなら効果的に」と考える点で乗れる、という建て付けです。
  • なので「権利を踏みにじってでも全体の幸福を最大化せよ」といった功利主義のハードな結論を、EA支持者の多くは必ずしも取りません。

つまり関係としては、功利主義 ⊃ EAの土台で、EAは功利主義を出発点にしつつ「証拠・測定・費用対効果」という方法論を前面に出した実践版、と捉えると正確です。

カープがこれを批判的に扱う理由

前ページの文脈に戻すと、カープがEA(とシンガー)を持ち出したのは、それが「すべてを単一の物差し(=厚生の量)で測る」という功利主義の弱点を共有しているからです。数値化できる「幸福の総量」に還元することで、「よく生きるとは何か」「人生の意味」「共同体や国家への帰属」といった、測れないが大切な問いを回避してしまう——スクルートンが「空虚な功利主義」と呼んだのはこの点です。

補足すると、EAは2010年代に巨額の資金と知名度を得ましたが、2022年に主要支援者だったサム・バンクマン=フリード(FTX)の破綻・詐欺事件で大きく評判を落とし、運動の在り方自体が問い直されました。シリコンバレーで一時とても流行った思想だからこそ、カープはそのエリート文化の象徴として槍玉に挙げている、という背景もあります。

評価関数を定めた結果、道徳が無視されたのでは

普遍的なkpiを定めてそれを評価関数とした結果、汎用的な指標は得られたものの、どうあるべきかという道徳的観念は無視されることとなった、というのですかね。

ほぼその通りですが、一点だけ精度を上げると、より正確になります。「無視された」というより「評価関数の中に暗黙の価値判断が埋め込まれ、それが不問に付されたまま最適化が回った」という方が、カープ(やスクルートン)の批判の核心に近いです。

おっしゃる通り、単一のスカラー指標(厚生・幸福の総量)を目的関数に据えると、汎用的で比較可能な“ものさし”が手に入ります。これは実際に有用で、EAはそれによって「同じ1万円ならどの慈善が最も多く命を救うか」を本当に計算できてしまう。そこは成果として認めていい部分です。問題はその先で、ご自身のRL/最適化の語彙でいうと、いくつかの典型的な失敗モードが起きます。

ひとつめは目的関数の選定そのものが価値判断だという点です。「厚生の最大化こそが善である」というのは、中立的・客観的な前提に見えて、実は一つの強い道徳的立場です。にもかかわらずEAはそれを「測定」という客観性の衣で覆うので、“どうあるべきか”という問いを、答えたのではなく前提の中に隠して飛ばしてしまう。シンガーの思想が魅力的なのは「長年の難問に答えを出したように見えるから」と本文にありましたが、これは解いたのではなく問いを解消(dissolve)したように見せているだけだ、というわけです。

ふたつめは、まさにGoodhartの法則 / specification gamingの構図です。「よく生きるとは何か」「共同体への帰属」「徳」といった本来の目的関数(true objective)は定式化が極めて難しい。そこで定式化しやすいプロキシ(厚生の量)を代わりに最適化すると、測れる代理指標は伸びても、測れない本来の価値からはどんどん乖離していく。測定対象に入らないものは最適化の対象から構造的に外れるので、意味・徳・帰属・ナショナル・アイデンティティといった量化困難な項は、悪いと判断されたわけでもないのに、評価関数に載らないという理由だけで切り捨てられていく。

なので整理すると、あなたの要約に一行足すなら——「普遍的KPIを評価関数に据えた結果、(1)その指標の選定自体に含まれる価値判断が不問にされ、(2)定式化できない“どうあるべきか”はプロキシ最適化の過程で構造的に脱落した」となります。そしてカープがこれを危険視するのは、こういう「測れるものしか最適化しない」エリートが、社会を動かす巨大な力(テクノロジー)を握っているからだ、というのが本書全体の問題意識につながっています。

では、どうするか — クリストルの処方箋

次はこのページです。クリスタルの発言が何を言いたいのかわからなくて解説してろしいです

(※ 書籍の該当ページを引用していたが、公開にあたり削除した)

まず確認ですが、本文の「アーヴィング・クリストル(Irving Kristol)」のことですね(音声入力で「クリスタル」になっているのだと思います)。彼はネオコン(新保守主義)の祖とされる思想家です。引用の発言は一見わかりにくいですが、ひとつの強い対比を立てているのがポイントです。

クリストルが言っているのは、「文明が今直面している本当に難しい仕事は、(A)世俗の合理主義をさらに改良することではなく、(B)弱りきった古い宗教の伝統に再び生命を吹き込むことだ」ということです。それぞれを分解すると:

  • (A)世俗の正統的合理主義を改革すること = 啓蒙以来の「宗教を排し、理性と科学だけで社会を運営する」というプロジェクトを、もっと精緻に・うまく機能させようとすること。クリストルは「これは本筋ではない」と言っています。
  • (B)無気力な古い宗教の正統性に新たな息吹を吹き込むこと = かつて社会に意味・徳・帰属を供給していた宗教的伝統が、今や形骸化して力を失っている。それを再び生き返らせること。クリストルは「こちらこそが真に困難で必要な仕事だ」と言っています。

つまり彼の主張の核心は、「西洋の問題は、合理主義が不完全なことではない。意味や道徳の土台だった宗教を失ったことだ。だから合理主義をいくら磨いても解決しない。本当に必要なのは宗教的伝統の再生だ」というものです。クリストル自身は個人としては信仰篤いタイプではなく、むしろ「社会を束ねる接着剤として宗教は不可欠だ」という機能的な観点から宗教を重んじた人で、この発言もその立場から出ています。

なぜここでクリストルが引かれるかは、ページの流れを見ると腑に落ちます。直前のサルスティウスは「繁栄して豊かになると、放縦・貪欲・傲慢が若者に広まり、徳が涵養されなくなって帝国は衰退する」と診断した古代ローマの史家です。著者はこれを現代に重ね、「この病(=徳の喪失)は、計算ずくの功利主義(=効果的利他主義)では治せない」と言う。EAは道徳哲学を借りてきたが、「生きる意味」を計算に組み込むことを先送りにしただけだ、と。そこへ処方箋としてクリストルの言葉が置かれる——「治療は世俗的合理主義の改良ではなく、宗教(=意味と徳の源泉)の再生だ」と。前ページからの「教会の借り物の資本が尽きる」という話の、いわば“ではどうするか”の答えになっているわけです。

ページ後半はその裏返しの批判です。左派エリートは「正しさ(=手続き的な公正・平等)ばかりを追い、善(=何が良い生き方かという中身)を打ち捨てた」結果、政治構想を空疎にした、と。最後のロールズへの言及も同じ論点で、ロールズは「政治的リベラリズムが目的について中立でも、道徳的徳を奨励できる」と弁護したけれど、彼の挙げる徳(公平な協力・礼節・寛容・理性的態度)は「市民社会を回すための最低限の、誰も反対しないリスト」にすぎず、公的領域を文化的に豊かにする力はない、と切り捨てています。

要するにこのページ全体は、「中立性・正しさ・計算では社会の徳と意味は涵養できない。クリストルが言うように、必要なのは(宗教を含む)共通文化の“中身”を公の場で堂々と語り、復活させることだ」という主張で、クリストルの発言はその中心的な根拠として置かれています。

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